ラスト・リゾート異聞録

モクジ
(「だめだ、防ぎきれない!」遠くから叫びが聞こえる。自宅のテラスで、どす黒く渦をまく空を俺は呆然と見詰めている。見渡す限りの暗闇の中で、炎があちこちで上がっている……その炎に照らされ白く瞬くもの。ガラスの破片と。目を凝らす。娘の、亜衣の白いワンピース!「パ‥‥パ、痛い、よ」駆け寄ろうと走り出すと何かに躓く。足首を掴む手。「救護班を…、少、佐」生暖かい液体が伝わり靴下を濡らしていく感触。それは部下の血。なにか叫ぼうと口をあける。空気が存在しないかのように、横隔膜は動かない、声帯が痙攣し、口内が乾き、胃液が喉を焼く。「あなた、あなた、助けて!」綾子の声がする。振り向こうとすると、延髄に何かが叩きつけられ、体が宙に浮く。床に飛び込むように倒れこみ頬を強打する。顔を上げると目の前で白いワンピースが紅く染まっていく。そんな、そんな。娘に呼びかけようとした瞬間、顔の真横でガラスを踏み砕く音が聞こえ、後頭部を踏みにじられる。重い、頭が変形、いや破裂してしまう、重い、やめてくれ、重い。この重さ。この異様な体重の重さ。異様な身体能力。こいつは。こいつはオールサイバーだ。オールサイバーだ……)

「オール、サイ、バー……」自らの呻くような呟きで目を覚ます。
またあの夢だ。あの日から毎晩のように見る。しかしこの夢を見なくなったら。俺には何も無くなる……。
もっと俺に力があれば。あの時もっと俺が強ければ。強さが欲しい。何も奪わせず、誰も殺させない、強さが。そう思ったとき、目の前にとても安易な道もあった。サイバー化。しかし、俺はそれを拒否した。
顔面から血の気が失せ、全身が嫌な汗に濡れているのがわかる。ベルリンまでの長時間の運転が響いたのか、いつのまにか眠ってしまっていた。自動点灯の間接照明を頼りに時刻を確かめると、20時をまわっている。俺は適当にルームサービスで夕食を頼むと、シャワールームに入った。
「俺は、認めない」
自己の研鑽を放棄し、科学によって超肉体を手に入れるオールサイバー。儀式のためだけに剣を下げる者が、『士』を名乗るのを、俺は絶対に認めない。しかしそれだけだろうか。それは、理屈だ。実は俺の本性は、ただの復讐鬼ではないのか。しかし、もう、遅い。『騎士団』発足のニュースを聞いて、町で彼らが誉めそやされる噂を聞いて。俺の中で何かが弾けた。そして元のカタチに戻らない。俺のただひとつの策が、薄氷張る湖を一歩一歩渡るような、誰の目にも凡そ不可能な賭けだとしても。後退のネジはもう無いのだ。シャワールームを出て、最後になるかもしれない晩餐を、ゆっくりと済ませた。

郊外の住宅地まで車を走らせ、適当な場所に止める。時刻はとうに22時を過ぎたろうか。後部座席の下から使い込んだ黒樫の木刀をずるりと引っ張り出す。いかな名刀をどれだけ優秀な砥ぎ師に砥がせても、日本刀の鉄の刃では、サイバーのチタン合金製皮下装甲を切り裂くことは難しい。右手にぶら下げて少し歩く。不思議なほど気分は落ち着いている。大破壊以前は、町の中心から遠く離れたこの通りにも多くの人々の往来があったのだろう、かなりの道幅だ。アスファルトに埋め込まれた平行線を描く鉄骨は、路面電車の名残か。しかし今は、この時間に出歩く民間人はいない。毎夜こうして武器をもってうろついていれば、治安維持活動の成果で市民の評価を得ようと必死な筈のリンドブルム騎士は、いつか祐三を見つけるだろう。
…四日目に相手は現れた。

月明かりの下で、こちらに歩いてくるシルエットは確かにサイバー騎士だ。徐々に目が慣れてくる。典型的なゲルマン系の少年のような風貌と騎士団制服、腰に下げた飾り物のロングソードがぼんやりと見える。彼には暗視用サイバーアイがある。それこそ鮮明に俺が見えているはずだ。暴徒とみなされ、無言で銃撃を受けることも覚悟していた。今、薄氷の上に一歩目を踏み出したのだ。次の瞬間にも奴の内蔵火器が、火を吹くかもしれない。空を仰ぎ、大きく息を吸い込んだ。


木製の棒切れのみを手にした東洋人を見ながら、そのオールサイバー騎士は判断に迷った。いまどき珍しい稼動可能な乗用車を所有する身分でありながら、略奪や強盗を犯そうとは思えない。火器及び爆発物を所持していないことも、サイバーでないことも、哨戒用小型金属探知機ですでにわかっている。その容姿、服装、佇まいからも、男が単なる犯罪者ではないことを騎士の経験が告げていた。この場合、まずは尋問が適切だろう。
「そこで、何をしている?」
騎士は呼びかけた。返事はない。
答えの代わりに、彼は剣を構えた。左下段。騎士との距離を測りながら、じりじりと円を描くように移動し、ビルの壁を背にする。
「待っていた」
「何?」
「私はPOA日本軍所属、在独逸陸軍武官、佐伯祐三。貴様と一対一の勝負を所望する。」
不可解。その三文字が騎士の思考を埋め尽くした。生身のエキスパートが、棒切れ一本のみを手に、軍事用オールサイバーに勝負を挑んでいる?そもそもPOA日本軍は、大破壊以後まともな組織として機能していない筈だ……。戸惑いに区切りをつけるように軽く咳払いをすると、相手を退かせる目的で騎士は言った。
「私は、リンドブルム騎士団のオールサイバーだ。なお、20:00以降の外出は現在」
「知っている。だから、貴様を待っていた」
「なんだと?」
「貴様と一対一の勝負を所望する。俺と立ち会え」
混乱の中で、一瞬こいつは狂人かと騎士は考えた。
「決闘を申し込もうというのか?Herr.サエキ。」
「貴様ら騎士団とやらの、決闘流儀に従うつもりはない。この場で、俺と立ち会え」
どうやら正気らしい。しかしその事実は騎士の混乱を深めただけだった。
「きみは、エキスパートだろう。自殺行為だぞ?」
「承知の上。まさか逃げはせぬだろうな、オールサイバー」
その一言が、騎士のプライドを傷つけた。
「私を愚弄する気か」
逃げるだと?エキスパート相手に、オールサイバーのこの私が?眉間にしわを寄せる。‥‥いいだろう、私と闘い、死にたいのならそうさせてやる。形骸化したPOA日本軍人ひとり殺したところで、対外的に何の問題もない。しかし哨戒結果報告書にはなんと書けばよいのだろう。理由ぐらいは聞いておくべきか。
「わかった、その申し出、受けよう。しかし」
「何だ」
「初対面の私ときみに遺恨があるとは思えない。理由をお聞かせ願いたい」
「よかろう。 それは貴様が、オールサイバーだからだ」
「具体的に、聞かせて頂きたいっ」
騎士の声は、苛立っている。
佐伯祐三の表情が突然、険しくなった。左頬の筋がひきつってさえいる。
「聞かせてやる。貴様だよ、オールサイバー。大暗黒期に、我が同胞達と、娘を弄ぶように虐殺したのは。妻を陵辱した上、殺したのは。貴様だ。オールサイバーだ」
「な、それは……私では、ないではないか。」
想定外の答えに、騎士の表情に明らかな当惑が浮かぶ。
「いいや? 貴様だとも。」
祐三は、唇を歪めて短く笑った。
「その造られた能力で我が軍の居住地を襲撃し、略奪し、ついにそこにも電力がもう無いと。死ぬしかないと絶望すると、獣のように、欲望の赴くままに、嬲り、犯し、破壊し、殺した。女子供までも」
「それは私ではない!」
「知らぬこと。俺には貴様がオールサイバーであれば十分」
「我々騎士団のサイバーは、そんな連中とは違う!」
「何故、そう言い切れる」
「我々の、騎士典範は……!」
「典範だと? そんな法も規律も存在しなくなり、待つのは死のみ。そうなった時、貴様らはただ粛々と、死んでいくことができるか。絶望の中で、己を律することができるか。貴様らオールサイバーには出来ぬ」
「ならば、おまえにだって……」
「俺には出来る。だからこそ、仕えるべき母国に見捨てられても、守るべき家族を失っても。死よりも辛い生を選んで、今、ここにいるのだ」

騎士の心中に、崇敬と哀れみが混じった感情が巻き起こり、自らの責務と葛藤した。
あの大暗黒期に、HBの電力のみが生命線であるオールサイバーの一部が暴徒化し、外国軍駐留地内の居住地に略奪、虐殺行為を行ったことは、十分ありうることだ…。いや、それは本当に起こったのだ。目の前のこの男の存在が、その証明。
「あのような暗黒期は、我々リンドブルムが二度と繰り返させはしない。だから……だから、その武器を捨てて、私と同行したまえ」
その口調に、先ほどまでの威勢と高慢さはない。
「歴史を学んだことがないようだな、オールサイバー」
佐伯祐三は構えた剣を微動だにさせない。
「もう一度言う、その武器を捨てたまえ、Herr.サエキ! 今なら夜間外出禁止令違反だけで済む!」
職務上、武器を携帯して夜間徘徊する者を見逃すことはできないし、その武器を使用すれば殺さねばならない。治安維持活動の効果を市民に強く示威するために、騎士団参謀本部は現在はそう厳しく定めている。それを破れば、リンドブルム所属オールサイバー騎士の相互監視システムによって、「堕落した騎士」とみなされ、他の騎士団員から死の制裁をうける。
しかし、この男を殺したく、ない。騎士はそう思い始めていた。
「最後の警告だ、武器を、捨てたまえ! Herr.サエキッ!」
哀願にも近い響きを含んだ叫びだった。
しかし佐伯祐三は首をゆっくりと横に降る。答えは”Nein”だ……。
「己の精神と肉体の鍛錬を放棄し、サイバー化で強さだけを、容易く手に入れる。所詮、貴様らオールサイバーは、弱い……。弱い、弱い心に、脆い理性の薄皮をかぶせただけの戦闘機械にすぎぬ。その貴様らが騎士を、もののふを名乗るとは笑止!武に励んだ者として、士官であった者として!俺は貴様らリンドブルム騎士だけは認めぬ!貴様らだけは、討たぬわけにゆかぬのだ!」
しばしの沈黙。騎士は、悲しみの中で説得が無駄な事を悟った。この男は、死に場所を求めているのか? 無駄だ。死を覚悟したものに、どんな説得が可能だというのか。

「互いにもう、言葉はいらないようだ」
「その通りだ、オールサイバー。……来い」

祐三は左下段に構えていた剣を右手の中でくるりと反転させ、左手で腰の位置に押し付けた。納刀。やや前傾し、右肩を騎士に見せるように半身に立つ。だらりとさげた右手首が、木剣の柄の上でピタリと静止している。居合の、構え。祐三は目を閉じた。
(タイミングをコンマ1秒でも外せば)
(切っ先が数センチでもずれてしまったら)
(刺突の角度を5度でも誤れば)
(奴が火器で撃ってくれば)
(奴の皮下装甲が特殊強化されたものだったら)
(奴が高機動運動モードで間合いに突入してこなかったら)
一つでも的中すれば、確実に自らが死ぬ、仮定。それを頭の中でひとつひとつ確認していくごとに、祐三は自らの精神が静かに研ぎ澄まされていくのを感じた。とうに覚悟した死は、恐怖どころかなんらの感情すらもたらさない。今世界に存在する全ては、我と、我が剣のみ。憎しみさえどこかへ消えうせていた。


騎士は、いまだかつて見たことの無い祐三の構えに一瞬、逡巡した。しかし波紋のない水面のような静かな殺気が、伝わってくる。
(仕掛けて、こないのか)
(ならばこちらから、全力で。せめて、楽に死なせてやりたい――!)
助走用の距離を数回のバックステップでとると、騎士は腕部内臓クローを起動させる。右手首部位から、乾いた金属音とともに刃渡り25cmほどの鋭い白刃が飛び出す。
「行くぞ」
最大出力の高速機動運動。時速100kmを超えるスピードで、騎士は祐三に向かって突進した。真横に振りかぶったクローの刃、その狙いは頚部の――完全切断!
速まった騎士の足音を聞くと同時に、祐三は目を見開いた。長年使い込んだ木剣の長さと自分の間合いは、寸分の狂いも無く体が覚えている筈。
(それを信じろ、己を信じるんだ)
2秒、1秒――0.3秒……0.2……0.1……0、間合い内!
(南無三っ! )
抜刀。騎士の胸元へ、吸い込まれるように切っ先が触れた―――

その刹那、信じられない光景がそこにあった。
真っ直ぐに伸ばされた祐三の右腕に握られた、木製の剣が、その身体を貫通せんばかりにオールサイバー騎士の皮下装甲を破り、深々と突き刺さっている…

体重120kg以上あるオールサイバーの、時速100kmでの突進。その衝撃に耐えられず木刀は大きくたわみ、破裂音とともに二つに折れた。そして祐三も、木刀のしなりと自身の関節によっていくらか吸収されたものの、その衝撃に弾き飛ばされ、身体を半回転させながら宙に浮き、受け身を取る間もなくアスファルトの地面に叩きつけられる。
「グあッ」
上腕骨の折れる、鈍い音。肩から落ちたことだけが幸いだった。
騎士は――木剣が胸に突き刺さった瞬間から生体部分維持モードに切り替わったのだろう。全身の制御機能を失い、さきほどまで祐三が背にしていた壁にそのままの軌道で衝突していた。傷ついたのはコンクリの壁のほうであり、騎士はかすり傷ひとつ負っていないが、肩ひざを立てて仰向けに横たわるその右胸には、黒い木片が壁によって押し込められたのだ、さらに深く突き刺さっていた。死んだように見えるが、そうではない。全電力を脊髄と脳の維持にまわし、短波無線で救難信号を発している状態だ。
パワードスーツもMSも、重火器も所持できない上に、ただの生身の人間である佐伯祐三。こちらからの斬撃は命中させることすら難しく、それができたところでかすり傷ひとつ与えられない。その彼の唯一の策とは、これだった。
自重120kgを超えるオールサイバーの高速機動運動に、カウンターとして自らの居合い抜き。居合いの剣撃は、瞬間時速200kmをゆうに超える。その二つのエネルギーを合わせ、適度な柔らかさをもつ鈍器、木剣。その先端で皮下装甲を一点突破し、貫く。
縮小して考えれば、重さが120kgある裁縫針が、時速300km以上で極薄の装甲板に衝突したことになる。いかにチタン合金製といえ、ひとたまりもない。
 
祐三は右肩を庇いながら、トドメを刺すためになんとか立ち上がった。自分が生きていることが、現実として受け入れられない。不思議な感覚。ゆっくりと、しかししっかりした足取りで自分の車へ向かい、トランクからガソリンの入ったタンクを取り出す。それを左手で引きずりながら騎士の元へ戻ると、その顔面に向かってタンクの中身を注いだ。サイバーといえどその脳は生体組織。高熱を与え続ければ、脳の蛋白質は凝固し、神経細胞は死ぬ。POA官給品のジッポライターをポケットから取り出し、点火する。
その灯りに照らされて。騎士の左手薬指に、指輪が光っているのを、祐三は見た。



アウトバーンをひたすらベルリンから離れる方向に、ともかくリンドブルムの勢力が薄い筈の東南方向に。左手のみでハンドルを握り、猛スピードで走らせながら、佐伯祐三は考えていた。右上腕には自らの手で添え木があてられている。
俺はなぜ、火をつけられなかった?何故殺せなかった?
答えのでぬまま、エルベ川沿いまで達した時に、祐三の疲労は限界に達した。車を止め、自問を繰り返しながらシートを後ろに傾け、横たわる。右腕の鈍痛に顔を歪めながら、また祐三は自らに問う。俺は何故、殺せなかったのか‥‥。その思考も途絶えがちになり、そして途絶え‥‥祐三は眠りに落ちた。

日の当たる草原で、娘は笑って手を振っていた。その娘を見守る妻は、優しい微笑を浮かべている。あの日以来、夢の中ではじめて見る。
二人の、笑顔。

朝焼けの中で、彼は目覚めた。
目を伏せて痛みに耐える彼の口元にも。何年ぶりだろうか、濁りのない明るい微笑が浮かんだ。
(これでいい。これで、よかったんだ…)
祐三はキーを回した。
(俺は生きる。綾子。亜衣。)



維持モードの騎士の救難信号は翌朝未明に探知され、救助された。
生身のエキスパートが、しかもたった一本の木片のみを武器に、オールサイバー騎士団員を戦闘不能にせしめた。
この事実は、ベルリン市民のリンドブルム騎士団に対する信頼を揺らがせかねないと判断され、公表はおろか総統カールレオン・フォン・リーディガーにも知らされぬまま少数の上層騎士団参謀により綿密に隠蔽、当該オールサイバーの行動及び修理記録は、偽装された上で一定の期間を置いたのち抹消された。そのため佐伯祐三に対する指名手配はもちろん、捜索・追跡活動は全く行われなかった。

そして、現在に至るまで汎ヨーロッパ連合のどの組織の公式記録にも彼の名前を見付けることはできず、その後の行方は全く知れない
モクジ
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